「読む」と「読める」と「読み取れる」

東洋経済ONLINE

これは、15歳を対象に経済協力開発機構(OECD)が実施している国際学習到達調査(PISA)の2018年実施分の結果の公表を受けてのもの。この国際学習到達調査(PISA)は3年に一度行なわれているもので、その中で『読解力』に関する日本の結果は、前回の2015年実施時の8位という結果から大きく後退し、今回の結果では15位。数学的応用力や科学的応用力も同じく順位は下がっているのだが、この『読解力』の下がり方はその比ではない。

『読解力』と一口に言っても、その解釈は場面ごとに異なるため、一般的な国語の力で文章題を解くと言ったイメージの『読解力』という考え方だけのものではない。ただ、本ブログでも何度も触れているように、今、子どもたちの国語力の低下は著しく、決して看過できるものでもないのは誰もが知るところ。

その考え方の一つとして、「読む」「読める」「読み取れる」が似て異なるものであるにも関わらず、その区別をあまり意識されることがない。その区別を自分なりの言葉で表現してみると次のような感じだ。

「読む」は目の前にある文字を音に変える(声に出すか頭の中だけかの区別はなし。)こと。

その場合、読み方を含めて、文字が正しく音に変換されているかどうかは問題ではなく、変えているということのみ。それはもちろん、読んでいるということではあるが、読んでいるだけ、もしくは読んでいるつもりになっているだけ。だから、音として間違えている場合もあるし、その言葉の意味がまったく違っていることも多々ある。すなわち、国語という教科において『読解力』としての点数としては低くなってしまう。

「読める」はある程度の正確さ(限りなく完璧に近い状態)をもって目の前にある文字や文章を読むこと。

読み間違えがなかったり、言葉の意味も正しかったり、ある程度、その文字や文章がこちらに伝えようとしているメッセージは理解できていると言っていいレベル。これであれば、国語という教科において『読解力』としてそこそこの点数には繋がる。

「読み取れる」は、正しく音に変え、音も意味もほぼ正確であることは当たり前で、その先に、文意であったり、文間であったりと言ったところまでしっかり意識しながら読めていること。それはすなわち、作者の意図であったり、出題者の意図であったりを理解しながら読めているということなので、国語という教科においての『読解力』としての点数は必然的に高くなる。

もちろん、その際に“正しく”という基準が付く必要であることは言うまでもないが、あくまで言語である以上、“絶対”という解釈は非常に難しいため完璧であることを基準にはできにくいが、それでもそこに大きなズレは生じないであろう。

すなわち、『読解力』を高める上で求められるのは「読む」や「読める」ではなく、「読み取れる」のレベルであり、そこを目指して学習することが大切なのだ。

今の子どもたちは、取り巻く環境が良くなりすぎて、自分から「読み取れる」ように努力をする必要がなく、便利な道具によって、読み取った情報を伝えられる形になっていることが多い。そのため、実際わかっていることが自分の力でわかったつもりになっているが、伝えられているにすぎないことに気付いていないから、いざ、文面のみから『読解力』を問われると、出来ないケースが多い。そして、そんな便利な環境があたり前になってしまっているからこそ、「読み取れる」力を身に付けようとするならば、意識的にそこを学習しないといけないのだが、そこまでに至っていないことが多いのだ。

すべての教科の基礎となる国語。

そして、その中でもとても重要となる『読解力』。

日本の子どもたちの『読解力』が低下しているという今回の結果を軽視することなく、重大な警鐘としてしっかり受け止め、低下に歯止めをかける環境を整えたいものですね。

-代表者ブログ, 教育について, 国語力

© 2024 NPO Selfish(セルフィッシュ)