はだしのゲン

広島への原爆投下から68年。原爆どころが、戦争すら知らない世代がどんどん増えている中で、薄れゆく記憶の中にその悲惨さを伝えることの大切さを本当に感じているのは、やはり本当の意味でその悲惨さを体験した人たちだけなのかもしれない。

それを伝えたいと願う人たちが、いろいろな形で後世にその思いを伝え、それが伝え続けられている。

『はだしのゲン』もまたその一つであり、自分たちの世代を含めて、この漫画を通して原爆の悲惨さや戦後の広島の様子を知った人はたくさんいるはずだ。
もちろん、自分自身、小学校時代や中学校時代に何度か読んだ覚えがある。

はだしのゲン
〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

今回取り沙汰されている問題。
あたり前のように賛否両論様々だ。

この本を読んだことのある人間として、今回問題視されているような内容が学びや成長に何らかの悪い影響を与えたられたのかと自分で考えてみても決してそうとは思えない。
「広島はこんなに大変だったのか…」という思いは持った覚えがあるが、それ以上でもそれ以下でもない。

すべての人が共感し、認められるものがあるのかと問われれば、その答えは“No”だと思う。
人それぞれ、考え方も違えば感じ方も違う。

仮に同じものを見たとしても、それを介して何をメッセージとして受け取り、どう活かしていくのかは人それぞれ違ってあたり前。
だからいいんだと思うし、そうでないといけないと思う。

それを一方的な見解で閉ざしてしまうというのはどうなんだろう?

『はだしのゲン』そのものが「良い」「悪い」という単純な話ではなく、子どもたちの知る権利、学びのチャンスを奪うことになるという考え方ではダメなんだろうか?

一般的に「良い」とされるものだけから学べば、それはそれでいいことなのかもしれないが、「悪い」されるものからも学ぶべきことはたくさんある。

教育の現場がある一つの題材を取り上げて、それが「良い」「悪い」かを論じるよりも、「良い」「悪い」を自分で判断したり、そこから真実を学ぼうとしたりする力を身に付ける必要があるのではないか?

あることを学ぼうと思うには、なんらかのきっかけがあることがほとんどだ。
『はだしのゲン』もそんなきっかけの一つにすぎないのではないか?

この本の持つ描写を“悪しきもの”とするならば、ネット全盛のこの時代、もっと手軽に子どもたちの目に触れ、悪影響を与えるものなんていくらでもある。
いくら学校や公共の図書館から閉架してもその気になればどこからでも手に入れて読むことはできる。

結局、論点のすり替えなのか?
子どもたちはこの本を学校や公共の図書館で手にしたのではないということを言いたいだけなのか?

いつものことながら、そんなことを思わずにいられない…。

-読書

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