東洋経済ON LINE掲載の記事ですごく興味深かったタイトルのものを読んでみました。
ワルの息子と母親を救った「先生のある一言」
自分の心を閉ざしてしまう現代の一見いい子
気になったポイントは2つ。
1つ目は、『ワル』と言われる生徒とその母親を救ったという先生って?
2つ目は、サブタイトルの『自分の心を閉ざしてしまう現代の一見いい子』とは?
『ワル』という言葉自体、耳にしなくなって久しい。『ワル』という言葉より『ツッパリ』という言葉の方がしっくりくる気もするが、いずれにせよ自分たちが中学生や高校生だった時代は普通に耳にしていたし、まわりにいっぱいいたし、そんな友人もたくさんいた。(自分は違うと思っているが…笑)
記事の中にも書かれているが、三十数年前の学校は、今ではテレビドラマか映画でしか見ないような服装をし、校内や街中でケンカやトラブルなんて日常茶飯事。そんな時代の子どもたちにとって、先生という存在は大きく分けて2種類。
“敵”か“味方”。
この場合の“敵”と“味方”という言葉のニュアンスは、その言葉どおりの自分たちと敵対関係かどうかということではなく、自分たちを“理解”してくれる”かどうかということ。もちろん、その“理解”にも段階があるが、逆に言えば、子どもたちの方がその先生のことを信頼できるかどうかと言った方がわかりやすいかもしれない。
この記事の話は、まさにそんな先生の代表とも言えるような先生。ここまでの先生はなかなかいなかったと思うが、「昔は、あんないい先生いたよなぁ~。」って自分たちの時代にも思いを馳せる。
そんな先生がいてくれたら、子どもたちの学校に対する信頼や社会に対する思いも少しは変わると思っていた。自分たちの時代はまさにそうであったし、自分のこととして考えても、ある意味、そんな『先生らしくない先生』が大好きだったし、信頼していたし、憧れていた。
それはまさに、自分にとって先生としての理想像であったが、時代の変遷とともに、『先生らしくない先生』はその言葉の通り、『らしくない』とされ、子どもたちからも保護者からも疎まれることがあるなんて話をよく聞く。結局、求められる先生の理想像が変わってるってことなんですよね。
そのことを示唆しているのが、もう一つの興味深かった『現代の一見いい子』の表現。これは、記事の中にこのように記されていた。
一見、「いい子ばかりでいいではないか」と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。先生どころか、親も知らないうちにひっそりと自殺をしてしまう、すべて自分の心に閉ざしてしまい、心を病んでしまう生徒が増えているというのです。おとなしい子どもは大人にとっては都合のよい子であるかもしれませんが、こんなつらいことはありません。
ほんと、そう思います。
一見、おとなしくいい子たち。表面上で目立つような問題を起こすこともなければ、ほとんど手もかからない。大人にとってみれば、問題の無い子。でも、必要以上に他者からの干渉を嫌う傾向が強い。それは、保護者しかり、先生しかり、場合によっては友だちすらもその対象。すなわち、気持ちや心をさらけ出して人と向き合ってないし、人と関わっていない。
そんな子どもたちにとって、うざいぐらい子どもたちに近い存在の先生なんて、必要としないどころか毛嫌いの対象でしかない。またそれは、保護者から見ても同じ。自分のところの子どもたちは問題ないと思っているので、それに関して、必要以上に関わってくるような先生はうざい先生であり、そんな先生を求めていない。
それもこれも、時代の違いなんだろうし、時代が変われば、子どもたちも、求められる先生像も変わって当たり前。
ということは、すごくよくわかる。
でも…。
なんか、すごく淋しい気がする……。