学習における“暗記”の位置付けについて。

「漢字を覚える。」

「かけ算九九を覚える。」

「英単語を暗記する。」

「歴史の年号を暗記する。」

“暗記”は学習するという過程において、あたり前のように行なってきたし、必要なものだと思っていました。というより、今なお、そう思って学習指導に当たっています。

が…。

PRESIDENT Onlineでこんなタイトルの記事を見つけ、もちろん気になってすぐに読んでみました。

学習プロセスにおいて「暗記」が無意味であるこれだけの理由 必要なのは理解し、生み出せる力

本文を一部抜粋しながら、自分自身の学びと合わせて話を進めてみたいと思います。

暗記と学習の違いはどこにあるのか。暗記は所定の情報を脳内に保存することだが、学習はその情報が何を意味し、その情報の状況に応じた最善の生かし方を理解することだ。

暗記は学習ではない。どうみても、学習という複雑なプロセスのごく一部を担うものでしかない。

この主張に関しては納得できる。しかし、ある意味「なるほど、そういう解釈なのか。」という感じがする。たしかにそのように切り分けをすると、学習という過程における一部という見方になるが、その過程において、“暗記”したデータがないと成立しない学習もあると考えると、やはり学習であると思う。というか、自分の中ではその認識である。

学習のプロセスは、「取得(事実を見つける力)」「暗記(事実を覚える力)」「理解(事実を活用できる力)」の3つに分けて考えるとわかりやすい。いまはテクノロジーのおかげで事実の取得がとても簡単になり、暗記がほぼ無意味になったため、残るは「理解」だけとなった。そして、これが学習にとっていちばん欠かせない。

たしかにこの点もすごく納得できる。様々な情報(この場合の情報としては、その情報が正しいか間違っているかは問わない。)が簡単に取得できるようになっているため、そういう意味では“暗記”が必要なくなりつつあるという点も理解できる。しかし、そういった媒体の利用が許されていない試験という場面においては、やはり自分の記憶に頼らないと理解する力だけで解答の最終形に至ることもできないことも多いため、やはり必要だと思ってしまう。

ただ、今少しずつ試験の在り方そのものが変わり、出題者側の意図として最終的な解答もさることながらその過程を問われることが増え、そういった場合は、教科書やノート類といった情報は持ち込み可能であったり、タブレットやパソコン等を使用できたりとなっていて、“暗記”していなくても問題を解くことができるというか、そちらの力を重要視しており、そこが問われる試験が主流になりつつあるため、こういった話になるのだろうと自分なりに理解しました。

結局のところ、何を基準とし、何を持って力を測るかによってその解釈は異なってくるということでしょうが、確実に今の教育の中で子どもたちに求められている力は変わってきており、そのために学ぶべきもの、身に付けるべきものも変容してきているため、そのあたりをしっかり理解、認識し、本当に必要な部分の力をしっかり伸ばすべく、学習に取り組む必要があるってことだと思います。

いい勉強になりました。

またこの記事では、後半に『共育の標準化に関する問題点』や『学習のパーソナライズ化』、『学習環境の変化』等について書かれているので、そのあたりも非常に勉強になります、前半部分にあたる今日の内容の学びともども、上記リンクから、是非読んでみていただきたいと思います。

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