「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

タイトルを見て、「この言葉知ってる!!」と思った人は日本史好きか学生時代にちゃんと社会科の勉強をした人ではないでしょうか?日本史の教科書で、江戸時代中期から後期の頃を学んだ時に、この言葉が出てきてたはずです。

てな具合で書き始めたわけですが、「今日は歴史の話題なのか?」って思われたでしょうが、今日書きたかったことを考えていたら、この言葉が頭に浮かんだので書いてみただけです。笑

さてさて、本題は…。

ランをしていたり、自転車で走っていたりするとまわりの様子がゆっくり見られるので、車の移動だと気付かないようないろんなものに目がいきます。そんな中で、最近よく目に留まるのが用水の中を悠々と泳ぐ大きな魚たち。決して水がキレイとは言えない用水。そこにかなりのサイズが結構な数泳いでるんです。アングラーならヒットした時にかなり手応えを感じられるだろうからワクワクしそうなサイズ。

最初「こんな水のところじゃなくて、もっとキレイな所の方が住みやすいだろうに…。」って思って見てたわけですが、それはこっちの勝手な思いで、住んでいる大きな魚たちにとっては、実はそこが住みやすく、そんな環境だからこそ大きく育っているのかもしれないって思ったら、こっちの勝手な思いは大きなお世話なんだろうなって思っちゃったわけです。

実際のところはどうなのか、生物学者じゃないのでわかりませんが…。苦笑

それって、子どもたちを取り巻く環境や教育に対しても同じじゃないかな?ってところまで考えが巡ったわけです。大人が考える子どもにとって良いと思われる環境が、子どもたちにとってはそうでなかったり、逆に苦しめてしまったりしてることもあるんじゃないかな?って感じです。

キレイに澄んだ環境ではなく、大人から見て濁っているような環境こそが、もしかしたら子どもたちの成長の鍵を握っている環境であり、それを避けてしまうことは成長のチャンスを逃しているかもしれない。そう思うと、そんな環境でもよしとできる大人の勇気もまた、子どもたちの成長や教育には必要なんだろうと思うわけです。

究極のところ、大人が『清濁併せ吞む』ところから子どもたちの成長に繋がり、またそこにこそ、教育の可能性があるのだ。

なんて独り言をツラツラと。。。

-代表者ブログ, 教育について, ひとり言, Bicycle

© 2024 NPO Selfish(セルフィッシュ)