「ら抜き言葉」と聞いて、ピンッとくる人は言葉についてある程度意識しながら使っているか、こういった関連の情報にも日頃から興味関心を持っている人でしょう。実際、この「ら抜き言葉」が使われ始めたのは、大正末期頃と言われているので、随分昔からですが、「ら抜き言葉」として世間的に認知されたり、言われ始めたのはもう少し後でしょうか?それでも数十年単位での話です。
そんな「ら抜き言葉」で、抜けているのは“ら”ではなく、“ar”であるという話題が俄かに持ち上がっています。それに関連する記事を読んでみると、決して新説として出てきたものではなく、その分野の研究者の間では共通の認識として扱われているものなのだそうですが、初めて聞くと、すごく切り口が斬新な発想で、興味津々です。
“ら”抜きではなく、“ar”抜きというのはどういうことかというのを、具体例を挙げて書かれているものを一部参考としてご紹介させていただくとこんな感じです。
「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」の変化をローマ字で書いてみると
「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」
となります。こう書いたときに、途中にある「ar」が抜けていると見ることもできます。
一行目に書かれているのが、一般的に「ら抜き言葉」と言われるように、本来、発する言葉として形成している音の中から“ら”が抜かれた状態で使われている言葉。
それに対して、二行目以下に書いてあるように、その言葉をローマ字表記して確認してみると、一塊の音として一音であるべき“ら”が抜けているのではなく、その言葉を構成しているアルファベットの羅列の中から“ar”が抜けていると考えるのがこの説にあたります。たしかに、実際に見てみるとそうなっているので不思議な感じがします。
『正しい or 正しくない』
この「ら抜き言葉」に関して言えば、その使い方自体が誤用であり、言葉として『正しくない』という考え方をよく耳にしますし、実際、自分もそうなんだと思っていました。
ただ、関連記事を読んでいて一番気になったのは、そういった諸説ある考え方と、それに伴い、現代においてそれが『正しい or 正しくない』という考え方で判断するのではなく、言葉自体がそういった変遷をすることそのものが、一つの“変化”であり、状況に応じて起こり得るそういった『変化を受け入れる』ことも大切であるという考え方。すなわち、『正しい or 正しくない』の判断基準だけが、すべてではないということ。
今回の話は、言葉の変遷に関してがテーマではあるが、決してそのことだけに限ったことではなく、いろんな場面で物事を判断するときにも同じことが言えると思う。ついつい『正しい or 正しくない』だけで判断しがちだけど、それだけで判断できるほど物事の在り方や人の考え方は単純じゃないし、“変化”という過程を経て多様化したにはそれなりに意味があるはず。その結果や意味を二極化で考える必要性がないって思える柔軟性があれば、その存在意義や他者との関係性においても、きっと何か違うものが見えてくるはず。
そして、『変化を受け入れる』という視点を持って生きていければ、人生はきっと、もっともっと楽しくなるはず☆