ネットに掲載されていたコラムと、それを読んだ来さん(Selfish沖縄キャンプでお世話になっている私の大学の先輩)が書かれていたSNSの投稿にすごく共感というか、「その通り!!」って思ったので、なんとなくつらつらと…。(長文になっちゃいました…。お暇な方だけどうぞ☆笑)
そもそものネット掲載されていたコラムは
台北、ハノイ、京都…。3つの国で暮らした私が思う“優しい社会”
というもの。特に、タイトルの最後にある“優しい社会”という言葉に惹かれる。
コラムの中にある『「ちゃんと」が好きな私』という表現。勤勉と言われる日本人の気質であり、そんな日本人である我々の中では、『「ちゃんと」が好きな人』が多いだろうと思うし、それを意識することなく、ある種のあたり前だと捉えている人が大半で、生まれてからずっとそんな社会の中で生きていると自然にそういった感覚になって当然だと思う。
そのコラムの筆者は、文中にこう書いている。
思うのだ。日本にいるときは「他人や社会に対する期待」をたっぷり抱えて暮らしているんじゃないかって。人や社会はいつでも優しいものであると信じて暮らしている。そしてその優しい社会を、ひとりひとりが守っていくべきだと思っている。誰かが不快に感じないように、そして私が不快を感じないように。
だからこそ日本にはたくさんの「であるべき」が存在するのだ。身なりはいつも清潔であるべきで、公共の場では静かにするべきで、迅速で安定したサービスを提供するべきだ、と。期待や願いは美しく私たちを動かすエネルギーになる。しかし同時に、外に向かう強い願いは「~であって欲しい。いやむしろ~であるべきだ」という呪縛も生み出すのだ。
ほんと「その通り!!」だと思う。結局、それって社会から受ける恩恵へのお返しとして模範生や優等生であることを求められる社会が成立し、それがスタンダードになり、そうでない人たちが生き難さを感じる社会が成立しているのだろう。
コラムの筆者はこう続けている。
信頼関係がない社会と聞くと、なんだか生きづらそうと感じるかもしれない。だけど私にとってはなんて「優しい社会」なのだろうと思う。
「不完全なものだ」と思っているから、誰かがミスをすることは当然で。ということは自分が失敗することも当然なのだ。そして私があなたに迷惑を時折かけてしまうのは当然なので、あなたが私に迷惑をかけてきても気にしないですよ、という暗黙の了解がある。
筆者のいうところの「優しい社会」とは、人が社会から受ける恩恵が多くあり、いろんなものが充足している社会ではなく、人が自分らしく生きられ、お互いが認めあえる世界のことなのかな?って自分なりに解釈しながらコラムを読んだ。
このコラムを読んだ来さんがこんな風に投稿されていました。(来さん、勝手に引用させてもらいます。ご容赦ください♪♪笑)
しかし、今、離島から那覇に行くと感じるのは、「那覇はもう日本だ、いい意味でも悪い意味でも以前感じた沖縄らしさはなくなった」という感じ。
移住者も増え、彼ら(私も含む)をイライラさせないため、もしくは沖縄社会に入り込んだ移住者自身がイライラしないように、どんどん社会の仕組みや、人と人とのの関係性を日本化させているのかもしれない。
観光地としての成功を目指す沖縄県。
あまりに日本化すると、旅人の感じる異国性や非日常性は失われ、単なる冬暖かい場所になってしまうよ。
旅人として感じられる、その土地や国の良さ。そこで暮らしている人にとっては日常の場所であることは間違いないけど、その非日常性に魅力を感じて集まる、もしくは住み着こうとする人にとって、それが失われてしまうと、そこは人が足を運ばない場所になり、観光サービスを主体としている場所は衰退してしまうことにもなりかねない。
だから、来さんの投稿を読んだ時も「その通り!!」って思った。
自分自身、以前、旅人として何度も足を運んだバンコク、自分自身が生活の場として選んで住んでいたバンコク、そして、ここ数年、再び旅人として足を運んでいるバンコクは時間の流れの中で大きく変容し、まったく違った街並みだと感じている。
それはそれでいいと思うし、変容自体はあたり前のことだと感じているが、自分の中でついついノスタルジックに『古き良きバンコク』みたいな勝手な思いがあることもまた事実。それでも、大好きな国であり、街であることには違いないのでこれまで同様に足を運ぶのだが、そういった変遷もまた、このコラムにあった「優しい社会」の考え方や来さんの言葉とリンクする気がする。
人の在り方。
社会の在り方。
その在り方をしっかり考えながら、楽しく生きていきたいものですね☆