一部の人たちにとっては非常に残念な通達であり、決定だったのかもしれない。
『猫ひろし、五輪出場ならず!』
個人的な意見としては、これでよかったのではないかと思う。
本人を含めて、カンボジアオリンピック委員会もある種落としどころを見失っていた感は否めない気がしていたので…。
国際陸上競技連盟が良識ある判断を下したことで、いろんな形で物議を醸し出していたこの話題にも一つの終止符が打たれた。
もちろん、この決定自体に関してもやはり賛否両論はあるのだろうが、まぁ、オリンピックが本来あるべき姿に戻っただけということでいいんじゃないでしょうか?
国際陸上競技連盟の定める国籍取得の規定を満たし、なおかつまわりの人すべてが納得するだけの群を抜いた記録がるのだとしたら、それはまた一つの選択肢だったのかもしれない。
でも、規定を満たしていない上に、本来の代表候補であるその国の選手の方がはるかにいい記録を出したとはれば話は別。
この決定が発表される前に、自ら辞退していた方がもっとかっこよかったと思う気もするが、それはそれでおいておこう。
“国の代表”。
その言葉の持つ意味は、決してそんなに軽いものじゃないはずだ。
だからこそ、代表になるためにみんな必死にがんばり、それを勝ち取ろうとするのではないのか?
そして、本来その資格を持つ人がその国を背負って出場し、戦うことに意味があるのではないか?
そんな気がしてならない…。
普段の生活においては、「やれ、国だ」とか「ボーダーだ」とかいった小さい境界線にこだわる気はない。
というか、それはどんどんなくなっていくべきだと思う。
でも、そうなっていない以上、そしてその境界によって規定された単位で参加することを原則とするオリンピックや国際大会を開催するのであるならば、それはある種厳格に守るべきルールが必要なのではないか?
そうでないのなら、早くその境界線を排除し、地球がみんなが一緒に手をつなげる一つの国家となるべきだ。
それが簡単にできないことだから、国際規模の大会が存在し、今回のような問題が発生するのだ。
話が堂々巡りになってしまうが、今回の問題に関しても、いろんなことを原点に立ち戻って考えれば答えは簡単だったのだと思う。
この国籍変更により出場資格取得の問題は陸上競技に限ったことではなく、最近は日本国内でもフィギアスケートのオリンピック代表を巡って話題になっていたのは記憶に新しい。
あれも、日本代表として出場させるために日本国籍を…という話だがいかがなものか?
本来、その国の国籍取得資格がある人間が、自己選択の結果、その国の国籍を取得した後にその国で活躍が認められてその国の代表になるのなら、それはあたり前の話になるだろう。
でも、代表選手になることを前提に国籍を取得するとなると本末転倒。
観てる(応援してる)方にとってもあまりいい気がするものではないはず。
どうせがんばって競技し、それを応援するのなら気持ちよくやりたいじゃないですか?
スポーツの醍醐味や気持ちよさってそこにあると思うし…。
まぁ、このネタは今回で終わり。
本人のコメントにあったように、このためにがんばった時間そのものは決して無駄にはならないと思うし、せっかく取得した国籍を、いい意味で今後もカンボジアのために活かすことができたら、今回のことも意味のあるものになるんじゃないのかな?