宿題を「無駄」だと考える教育観

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以前、本ブログでもご紹介させていただいたことのある、今、話題になっている教育関係の書籍『学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ―』。著者である工藤校長先生の学校現場での取り組みの数々は、これまでの常識を覆すものばかり。その分、いろんな形で取り上げられ、話題になっているので、目にされた方も多いかと思います。

そんな話題の中の一つが、『宿題は「無駄」だから廃止』という、これまでの学校教育の形を大きく変えるような取り組み。

さてさて、論拠はというと…。

結論からいうと、『分かっている人にとって宿題は「無駄」な作業」であるということ。その意見には大賛成です。

続けて、こう解説されていました。

学力を高めるためには、自分が「分からない」問題を「分かる」ようにするプロセスが必要であるが、多くの宿題においては、そのプロセスが欠け、「無駄」な作業であったり、重荷になったりしている。すなわち、宿題のもつ本来の意味を成していないということだ。

自分ができることを最大限がんばることが称賛される。そのこと自体は決して悪いことではないし、教育の中においても間違いなく必要な考え方だ。ただ、宿題において考えるとちょっと違ってくる。できることだけやっていても、その宿題の効果は半減どころか、まったく意味を成さない場合がある。それに費やす時間は、本人の力を伸ばすためにもっと違うことに費やすべきだということだろう。まさにその通りだと思います。

他人から“やらされている”勉強による成長には自ずと限界があり、自らが“やっている”勉強にこそ意味があり、成長の鍵がそこにあるのだ。

そういった意味で、宿題を「無駄」だと考える教育観には大賛成であり、このことを発信し、なおかつ実践されていることは本当に素晴らしいことだと思う。

しかし、忘れてはならないことは、大半の子どもたちがその考え方に沿って自分の学びの場や方向性をきちんと見つけ出し、進むことが難しいという現実。その力やその環境が整っている子どもたちがはまだまだ少ない。だからこそ、宿題に変わる子どもたちの学びの形の確立やそこに至る過程での子どもたちの学ぶ力のきちんとした底上げ、そしてそれらが機能する環境づくりなど課題は山積みのように感じる。またそれは、子どもたちの側だけの話ではなく、それらを子どもたちに提示しなければいけない先生の側の共通理解や意識レベル、課題提示のスキルなども同時に求められる話。それら無くして、決して成立するものではないし、時間のかかる変革だとも思う。

決して、誤解して欲しくないのは、今述べている意見は工藤校長先生の取り組みを否定しているわけではない。むしろ、何度も述べているように、個人的には大賛成であり、そちらの方向への変革を切に願っているのだ。

ただ、その変革の波に子どもたちが乗り切れず、置いてけぼりになってしまったり、他の方向に流されてしまったりしては、せっかくの素晴らしい教育観も意味を成さなくなってしまうので、本当に意味のある教育が成される環境を整えるために、我々ももっともっと考え、工夫し、成長する必要があるということ、そして、その先にこそ子どもたちの成長があるのだということを忘れてはならないと思っている。

 

「宿題が無かったら、その時間をこの子に本当に必要な力をつけてあげるための時間として費やすことができるのに…。でも、宿題をがんばって提出することで、それでこの子が怒られることなく、評価(成績)につながるのなら…。」

宿題に追われ、苦しんでいる子どもたちのサポートをしながら、いつもそんなことを考え、ジレンマを感じている塾の先生のぼやきに近いひとり言…。

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