ネット配信されていたニュースで、すごくおもしろいというか興味深いタイトルがあり、気になって読んでみました。
そのタイトルがこれ。
カリスマ教師が担任した翌年はクラスが荒れる!?―「今度の先生面白くないんだもん」の言葉で気付いた「教師の役割」
月間教員セミナーのコラムを元に書かれた記事だそうです。上記タイトルにリンクを貼らせていただいておりますので、詳細に関しましては記事の方でお読みいただければと思います。
普通に考えたら、“カリスマ教師”と呼ばれるような先生は、子どもたちを惹きつけ、育てる力や、クラス運営をする力、教科の指導をする力など、教育現場において必要な力を持たれていて、いろんな形で結果を出された先生だというイメージになります。
そんな先生が1年かけて作り上げたクラスが、何故、その翌年に荒れることになるのか?
その反動の原因は何なのか?
記事を読むと、思わず、「なるほど。」とうなずきつつ、教育の難しさを改めて感じる。
教育の持つ二つの面と子どもたちとの距離感
おもしろい先生、魅力的な先生の授業や関わりには子どもたちがどんどん惹き込まれる。それ自体はとてもいいことだ。しかし、もう一つ忘れずに考えなければいけないことは、それによって得られる子どもたちの学びが主体的なものであり、能動的なものであるかどうかということ。
仮に、その学びが主体的でなく、受動的なものだったとしたら、その学び自体は必ずどこかで頭打ちをしてしまうことになる。
この記事の言わんとしているところは、そういったことではないだろうかと考える。書かれている概要を自分なりに勝手に解釈しただけなのだが、中らずと雖も遠からずといったところではないかと思っています。
なぜ、そんな風に考えるか?
それは、自分自身が長年、教育に携わらせてもらってきて、自分自身の中で感じていることとリンクする部分もあるからであり、それこそが、今日のブログのタイトルにも書いた『教育の持つ二面性』でもあります。
教えすぎる(与えすぎる)ことで育たない一面。
教えすぎない(与えすぎない)ことで育てる一面。
教えることは教育の本質であります。でも、その先に本人の力になることが前提でなくてはなりません。だから、教えることや関わることの度合いをしっかり見極め、子どもたちとのいい距離感を作ることが大切ですね。