教育の本質について書かれたあるコラムを見て、自分の教育観の在り方について改めて考えさせられました。コラムの内容を一部抜粋してそのまま掲載させていただきながら、自分の思いも書かせていただくので、今日はちょっと長くなると思います。ゆっくりお付き合いください。m(__)m
病院の待合室でのある父娘のエピソード
それはこんな話から始まっていました。
■子どもの「わるさ」は親の気を引きたいという愛情表現
とある病院の待合室。
皮膚科の待合室っていうのは「ここは小児科か?」と思うくらい子供たちで溢れかえっています。それはそれはワイワイ、ギャーギャーで大変な賑わい。この子供たちを観察していて面白いのは、子供って親が嫌がることばかりやるんですね。親が「お願いだからそれだけはやらないで」っていうことを全部やります。
ママさんが「そんなところに寝転ばないで」って言えば、必ずそんなところで寝転びます。パパさんが「静かに座ってて」って言えば、必ず立ち上がって騒ぎ出します。
なぜかというと、子供は親の気を引くために必死なんですね。
親が自分から気をそらすと、必ず親の嫌がることをして親の目を自分に向けようとする。子供は親を困らせようという意識は無く、ただ親の目を自分に向けて欲しいという一種の愛情表現だということが、傍目にはよく分かるんです。
■にらめっこをしてくるから、時間を教えて
そうと分かっていても親にとってそれは本当に大変なこと。
だって自分が嫌がることを全てやってくる小(子)悪魔たちを相手にしなきゃいけないんですから。気持ちが病むこともあるでしょう。
そんな場面の中で、1人すごい父親がいました。4~5才くらいの娘さんを連れたパパさん。僕の隣に座ったその父親は、娘さんにこんな風に話しかけていました。
「いいかい、今からパパは先生のところにいってくるからね。」
「何してくるの?」娘さんがたずねます。
「パパはねえ、先生と"にらめっこ"の勝負をしてくるんだよ。 前回は先生に負けちゃったから、今度は負けられないんだ。
一つお願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「うん、いいよ。」「今から先生に呼ばれて行って来るから、パパがあのドアから診察室に入ってから何分で帰ってこれるか数えていてほしいんだ。」
「うん、分かった。」
父親は名前を呼ばれて診察室に入っていきました。その瞬間から、父親との約束通り娘さんは指を折りながらカウントをし始めました。
周りの同年代の子供たちがワイワイ騒いでいるのに対し、彼女は父親に正確な時間を告げるために、それはそれは真剣に秒数を数えていました。
■おとなしく待つことと、病院は怖くないという教え
やがて父親は笑顔で帰ってきました。そして娘さんの隣に座るやいなや「何分だった?」とたずねました。
すると娘さんが答えます。「1分55秒だったよ。それで"にらめっこ"は?」
「パパが勝ったよ。先生ね、始めはスゴク恐い顔してたけど笑ったらスゴク優しい顔になったよ。本当は優しい先生だったよ。」「な~んだ、私も行きたかったなあ。」
この会話を隣で盗み聞きしていた僕は、すごい父親が世の中にはいたものだと感動していました。父親は叱ることも怒鳴ることもなく、娘さんを静かに待たせる知恵で見事にコントロールしていたのです。
周りでは「静かにしなさい」「座りなさい」と、ああしなさい、こうしなさいというバトルが繰り広げられているにも関わらず、この父娘は別世界のように穏やかで、しかも楽しく時間が進んでいます。
さらに、子供が嫌がる病院やドクターを楽しいキャラとして娘さんにインプットしている。
教育の本質に関する考察
この場に居合わせ、その様子を見ていた筆者は「すごい父親が世の中にはいたものだ」と感動し、教育の本質についてこのように考えたそうです。
■厳しさを教えることが子どもに与える影響
こういう言葉が教育だと勘違いしている人たちがいる。
「人生って厳しいものなんだよ」
「世の中ってそんなに甘くないんだよ」
「パパだって会社で怒られてツライ思いをしてるんだよ」子供たちに「人生の厳しさ」を最初に植えつけておくことで、どんな難関がきても頑張れる子供に育ってほしい。君だけがツライんじゃなくて、みんなツライ思いをしてるんだ、と。
こうしたスタイルを教育だと勘違いしてしまっていないだろうか?
これでは子供たちは萎縮してしまうし、「世の中」は怖いところだから大人なんかにならずに子供のままでいたい。いつまでも親に守ってもらいたい。そう思ってしまうのではないだろうか。
そうして自らの成長を自らの意思で止めてしまっているのではないか。成長して大人になったら、そんなヒドイ世の中に入っていかなくてはならないのですから。
こうした誤った「脅し言葉」がいつまでも未熟な子供たちをつくってしまっている可能性がある。ここに気がつく必要があるのです。
精神的に未熟な子供が増えたのは彼ら自身のせいではない。大人たちが彼らに対して使っている「脅し言葉」にあるのかもしれません。
読んでいただいてどう思われましたか?
自分自身の教育観を鑑みて
私自身はすごく身につまされる思いで考えさせられました。自分のやっている教育はどうなんだろう?と…。
自分は未来の可能性をできるだけ伝えることで、子どもたちの選択の幅を少しでも広げ、夢と希望を持ち、自分で道を選択しながら成長して欲しいと願っています。そのためにできるだけたくさんのことを子どもたちに見て欲しい、聞いて欲しい、経験して欲しい、考えて欲しいと思い、できる限りのものを子どもたちの前に提示するように心掛けています。
その中には、この筆者が言われているような子どもたちが委縮してしまうようなことや将来に希望が持てなくなるようなことをも伝えています。決して怖がらせたいとか、厳しさを伝えたいってことではなく、それも含めてできる限りの情報を伝えることで選択の指針として欲しいと考えているからです。
でも、このコラムを読んで「本当にそれでいいのか?それは必要なことなのか?」と改めて考えました。
考えてみたものの、答えには辿り着いていません。きっと、この先も一つの答えに辿り着くことはできないと思います。でも、きっとそれでいいのだと思います。だって、すべてにとって正解の教育に対する答えはないはずです。
だからこそ、教育に対してのいろいろな考え方を知ることで、自分が今目の前にいる子に対してどういう言葉をかけて、何をしてあげればいいかを考える際に指針を増やしていけばいいのだと思います。
それは、自分が子どもたちに伝えようとしていることと同じで、たくさんのことを知っておくことが、直面した場面での選択肢の幅を広げることになり、結果的に子どもたちの選択肢をさらに広げてあげられることにつながると思うから…。
でも、やっぱり楽しいこと、夢が見れることが多い方が絶対いいから、そちらをたくさん伝えて、未来に夢と希望を持って大きく成長してもらえるようになりたいな☆