言葉には2種類の側面があります。
1つは「話すこと・聞くこと」。
もう1つは「書くこと・読むこと」。
我々日本人は、日常生活の中でコミュニケーションツールとして日本語を使います。ただ、実際に使っている中でこの2種類の側面の習得過程や使用レベルで大きな違いがあります。
まず、「話すこと・聞くこと」は特別に“勉強する”という過程を経ることなく、基本的なレベルの習得が行なわれています。すなわち、小さな子どもたちであっても普通に会話は成立(この場合、語彙量の差や誤用などは考えないものとします。)していると考えることができます。
これに対して、「書くこと・読むこと」は基本的には小学校に就学後、国語という教科学習を通してひらがな、カタカナ、漢字をなどの文字を“勉強する”ことで徐々に身に付け、コミュニケーションツールの一つとして使用しています。すなわち、意図的に習得過程を設け、使用できるようにしていると考えることができます。
特に日本語の場合は、表音文字としてのひらがな、カタカナと表意文字としての漢字を併用して使用するため、習得の必要性がある文字数も必然的に多くなり、習得の度合いが「書くこと・読むこと」の個人差に大きく影響を与えますが、「話すこと・聞くこと」への影響はさほどでもないと言えると思います。
そう考えると、音声ベースの「話すこと・聞くこと」はある種、人間が持ち合わせている能力であり、「書くこと・読むこと」は後天的に“勉強する”ことによって身に付ける必要のある能力であると言えます。そのあたりは、世界的に見たときに、『識字率』という基準で比較できる部分ともリンクすると思います。
もちろん、「話すこと・聞くこと」と「読むこと・書くこと」は日常生活の中で切っても切り離せない関係であることは言うまでもありません。
「話すこと・聞くこと」がコミュニケーションのベースであり、その幅を広げるためには「読むこと・書くこと」の力を伸ばすことで語彙量を増やしたり、意味を理解して使用することで誤用を減らしたりすることが、コミュニケーションツールとしての精度を上げることや国語という教科としての能力を高めることに繋がります。
では、その学びの効率を高め、伸ばしてくれるための学習方法は?と聞かれたら、ズバリ“読書”です。もちろん、意図的に「読むこと・書くこと」の訓練をすることも学習方法として基本的な方法ですが、“読書”はその過程を通して、自然と「読むこと・書くこと」の力を付けることにつながります。
加えて、「話すこと・聞くこと」をどれだけ鍛えても、「読むこと・書くこと」の力は伸びませんが、「読むこと・書くこと」をしっかり鍛えることは、そのまま「話すこと・聞くこと」を鍛えることにもつながります。
人間が本来、本能的に持っている力とそうでない力とでは、習得過程も違うし、伸ばし方も違います。身に付けたり、伸ばしたりするために意図的な過程が必要な力は、やはりそれ無くして力を身に付けることはできません。
国語という教科としてだけではなく、すべての学びや生活においてとても重要な「読むこと・書くこと」の力。“読書”に限らず、いろんな形でしっかり身に付けるべくがんばりましょう☆