フォトジャーナリストの安田菜津紀さんのエッセイから。
いつもの駅で電車に乗り込み、無意識にスマホを取り出す。しばらくしてふと顔を上げる。車窓の向こう側、線路際に咲いている黄色い花たちが一瞬目に入ったかと思うと、あっという間に視界の彼方に消えていった。きっと一番大好きな菜の花だったはずだ。こうして知らず知らずのうちに、愛おしい瞬間は流れ去っていく。スマホに目を落としている時間は、何かを知りたいと望んでいるというよりも、世界を拒絶することなのかもしれない。
そう考えると日々の中でシャッターを切るということは、美しいものを切り取るというよりも、日常の中で見落としているものを拾い上げるような作業のように思える。
毎日がつまらない、と語る友人たちに、時折こんな言葉をかけることがある。カメラを持って、街に出よう。何か撮るものがないものかと探しているうちに、気が付く。普段何気なく通り過ぎている風景、その一つ一つが、実は自分に笑いかけていたことに。だから春を見つけに行こう、と。
移動の最中、フッと気が付いた瞬間、暇つぶし(!?)にスマホに目を落としてしまっている。特に、必要に迫られた連絡があるわけではなく、特に急ぎで調べる必要な事があるわけではない。そう考えると、本当に暇つぶしであり、手持無沙汰以外の何物でもない。
別に、それが“絶対”ではないのに、生活の中心にドカッと腰を据えてしまい、生活の中でたくさんの時間を占めてしまうようになったのはいつからなんだろう…?
それに費やしている時間を、安田さんは『世界を拒絶することなのかもしれない。』と表現している。
そういう風に捉えたことはなかった。ただ、自分の時間を自分の好きなように使っているだけだと…。それを『自分の世界に入っている』なんて表現をする場合もあるが、いずれにせよ、小さな殻の中に籠っていることに違いない。安田さんのコラムを読んでいて改めてそう感じた。
『シャッターを切るということは、…日常の中で見落としているものを拾い上げるような作業のように思える。』
う~ん、なんて素敵な捉え方なんだろう。
日常の中で出会えるチャンスがあるのに、自分が目を向けなかったことで見落としてしまっているものを拾い上げる。
実は、その中にこそ、自分にとって本当に大切なものがあるのかもしれない。
それを一つでも多く見つけることができたら、人生は今よりももっと幸せになるような気がする☆