知っているようで知らない日本の歴史『鎖国』

江戸時代、日本は『鎖国』してました。

あたり前のように、学校の社会の教科書にはこの文字が載っていてそう習ってきたし、それが正しいものだと思っていたので疑うことも調べることもしませんでした。

でも、実際はこれは正しくないということで、文部科学省が14日公表した次期学習指導要領では、この『鎖国』という表記がなくなるのだそうです。

文部科学省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許可していたし、薩摩(鹿児島)、対馬(長崎)、松前(北海道)でも外交や貿易は行なわれていたから、完全に国を閉ざしていたわけではないので当時の実態に則さないためだという。

えっ?そうなの?ということで調べてみると…

調べてみたらWikipediaにはこう記されていました。

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が外交に関する権利を独占し、日本人の出入国及び貿易を管理・統制・制限した対外政策、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国とは「通信」の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。但し、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降のことであり、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。

たしかに言われれば、そういう状態であったことは学校でも習っていたし、それも含めて、当時の日本の状態を『鎖国』というのだと認識してました。

そうなると次に生まれた疑問がこれ!!

じゃあ、鎖国令は?

徳川3代将軍・家光の時代に『鎖国』 に関しては鎖国令が出されて、それが完成したのだと認識していたのですが、そのあたりはどうなんだろう?と思い、再び調べてみました。

調べてみたら、Yahoo!知恵袋にこんな記載がありました。

「鎖国令」という一個の法令があったわけではありません。
順を追いますと
・ヨーロッパ船の来航地を平戸・長崎に限定(元和二(1616)年 将軍徳川秀忠)
・イギリスが平戸の商館を閉鎖(自主退去 元和九(1623)年 将軍徳川家光)
・スペイン船の来航を禁止(寛永元(1624)年将軍徳川家光)
・奉書船以外の海外渡航禁止(寛永十(1633)年将軍徳川家光)
・日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面禁止・外国船の来航を長崎に限定(寛永十二(1635)年将軍徳川家光)
・ポルトガル人の居住地を出島に限定(寛永十三(1636)年将軍徳川家光)
※「島原の乱」(寛永十四(1637)年)
・ポルトガル船の来航禁止(寛永十六(1639)年将軍徳川家光)
・オランダ商館を出島に移転(寛永十八(1641)年将軍徳川家光)
となり、概ね家光の代です。

すなわち、この一連の流れを総称して鎖国令という言葉が後で生まれたものらしく、Wikipediaにも記されていたように『鎖国』という言葉自体も明治以降であるということから、鎖国令という言葉も後付けだったんですね。知らなかった…。(^^;

社会の授業をしていると時々起こる、こうした自分の学びと現在の指導内容との違い。

子どもたちに混乱をさせることのないように、教える際には気を付けたいと思います。

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