“生活”という尺度で見れば、たしかに豊かになっていることは間違いない気がするが、こと“成長”という尺度で見れば、確実に逆方向への進化を遂げているような気がする。
例えば、身のまわりの物を見回すと『抗菌』効果をうたった商品がたくさんある。
小さな子どもたちに使うことや、もちろん大人が使うことを考えても、『抗菌』効果による衛生面の向上と、『抗菌』のために除菌作業をするような手間が省けるという豊かさは増えている。
ただその反面、『抗菌』加工された物ばかりを使っている現代の人間は、どんどん菌に対する抗体力・免疫力が低下し、ちょっとした菌に対してもアレルギー反応を起こしやすくなっている。
花粉症などのアレルギー性の病気の罹患率がどんどん上がっているのもその原因の一つであるという話も聞いたことがある。
こんなことを言っている自分自身、全然アレルギー体質なんかではなかったのに、10年近く前からアレルギーに悩まされている。
また、PCに代表されるコンピューター機器やIT関連機器、子どもたち(大人という大きな子どもも含む)が持って持って遊ぶゲーム機器なんかもそう。
技術がどんどん進化して、自分たちが子どもだった頃のおもちゃやゲームなんか比較対象にならないぐらいハイテクですごい物がたくさんある。
それを使って仕事をしたり、遊んだりしたら、そりゃあ便利だし楽しいのは間違いない。
でも、本来人間が自分の能力の範囲内でやっていた(できていた)ことですらそういった危機が代理にやってくれるから、人間はどんどんやらなくていいことが増えている。
それはそのまま、できないことが増えているということに他ならない。
人間が自分でやるべきことを道具が代理をしてくれる。
そんな便利さや豊かさにより、できてたことがどんどんできなくなっていく。
恥ずかしい話、自分について考えてみてもそうだ。
計算力はどんどん低下しているし、漢字は読めても書けない字が増えてきていることを痛感している。
もちろん、自分自身の努力や修練が不足していることも影響していることは間違いないが、便利さが産み出した負の産物に他ならない気がする。
読売新聞のニュースには、大阪市で小学校の授業にタブレットが取り入れられている様子も紹介されていた。
一人一台。
すべての子ども達にタブレットを配布し、それで授業を行なう。
とりあえず、小・中学校の6校と中高一貫校に試験的に導入されているとのことだが、こうなってくると、学校の授業ですら先生がしていて教材を有効に利用しているのか、教材が授業をしてくれて先生がその補助をしているのかすらわからなくなる。
教育の本質すら見失ってしまいそうだ…。
効率を追求することは決して悪いことではない。
そのために便利な物が開発され、経済も文化も発展していき、"生活"が便利になるのなら、人類としては万々歳だ。
しかし、その便利さから産み出されるものが人の"成長"を妨げていたり、妨げる可能性があるのなら、その使用方法や在り方には十分な注意が必要なのではないか?
教育の中に取り入れるのならなおさらだ。
子どもたちの未来への成長を願い、それを助けるべき立場にある大人が、その道を誤ることなく、正しい道で子どもたちの成長への道標を示せるようになろう。