京大入試問題漏えい事件

世間をにぎわしているこの京大入試での問題。
大学側が京都府警に被害届を出したことで、偽計業務防害として捜査が始まり、関係者や警察がかなり躍起になって犯人捜しに努めていることはニュース等でみなさんもご存知だと思います。
その方法や目的に関してもいろいろな憶測が飛び交っていますが、これを行なった人間の真意とともにそれらはいずれ明らかになることでしょう。
あまり明確に公表してしまうと、またそれを真似する奴が出てこないとも限らないので、個人的にも非常に興味のあるところですが、公表は程々にしておくべきだと思いますが…。
この事件に関するいろんなニュースや記事を読んでいる中で、作家の冷泉彰彦さんニューズウィーク日本版に書かれていた記事が非常に興味深かったので、ご紹介させていただきます。
あまりにも今の高等教育における問題点を赤裸々に、かつ辛辣に書かれていていろんなことを考えさせられる記事でしたので、少し長くなりますが原文をそのまますべて引用させていただいています。


『京都大学の入学試験中に、こともあろうに配られた問題をネットの掲示板にアップロードして、幅広く正解を募集していた学生がいたそうです。さて、その「犯人」は特定できるのでしょうか? 寄せられた正答のパターンと答案を照合してみたり、同じハンドルネームで似たような行為を行ったと見られる他大学での答案と筆跡鑑定での一致を確認するとかすれば可能なように思います。

ですから、事件そのものは特に衝撃的ではないし、清朝以前の中国における「科挙試験」での不正行為の歴史などに比べればチャチな話です。不正受験者は早急に特定して厳しく断罪すれば良いのだと思います。ですが、今回の「事件」は1つの事実を暴露したように思います。それは、大学入試というものが「受験生に特有の個性や潜在能力」を測定するということは全くやっていないという事実であり、にも関わらずまるで前近代の中国の科挙試験のように「一発の入試が人生を決める」というバカバカしさを捨てられないでいるという点です。

どうして「ネット不正」や、数年前に話題になった替え玉受験などということがまかり通るのかというと、とにかく「多くの人間の知恵を集めれば簡単に解けてしまう問題」を、受験生個人の記憶力と謎解き能力を「純粋に」測定するために、密室で厳格な監視下に置き、辞書や電卓の使用を禁止して解かせる、その全体に問題があるのです。勿論、読み書き算盤の能力は、大学での学習効果を考えた時に重要な潜在能力だとみなすことはできます。そのことを否定するものではありません。常用漢字の読み書きの怪しい人間に法律や日本文学の専門的な勉強は難しいでしょうし、ニュートン力学の基本を納得しないで機械工学を学ぶというのはナンセンスです。

ですが、それは必要条件であっても十分条件ではないのです。とにかく「その学生が、明らかにその大学に入学することで、他の受験生の中で専門分野での研究や社会貢献に向かって能力を開花させる潜在能力がある」ということの「その学生個人の資質、見識、意欲」などを見る部分が全くない入試というのは、人材選抜の方法として実に非効率だと思うのです。例えば、採用に失敗したら最悪の場合業績の悪化に直面する民間企業が、そんな「粗っぽい選抜」はやっていないということを考えれば明白だと思います。

例えば「高校の教育課程を超えた部分で明らかな才能」を持っている人間が全く評価されないというのもナンセンスな話です。芥川賞級の純文学小説が書けても、簿記・会計学・税制を理解してインターンさえやれば公認会計士になれる実力があっても、代替エネルギー開発のある分野で重要な発見をしていても、入試では全く役に立ちません。反対に、その大学に真剣に来る気のない、「冷やかし受験」でも「受験テクニック」があればいくらでも合格が可能ですし、入学後に非人道的なことをやって自分も大学も破滅させようなどという種類の学生でも通ってしまうでしょう。

そこまで言わなくても、「ちょっとネットで掲示すれば数十分で誰かが回答を教えてくれる」程度の「いわゆる入試問題」で合否が決まるというのは何とも安易な話です。百歩譲って、ペーパー一発勝負というスタイルが変えられないにしても、数学でも物理でも、あるいは国語にしても社会にしても「答えの出ない難問」に向かわせて、知的苦闘の痕跡で能力資質を判断するような問題は可能だと思うのです。

英語などはもっと簡単でしょう。今回は早大の入試で「英文の要約を英文で」という問題でネット不正があり、日本語の要約文を「訳してくれ」というバカなリクエストを掲示板に出しているのですが、こうした「訳せ」とか「要約せよ」という「誰にでもできる」問題で合否が決まるというのも選抜として手抜きもいいところです。(しかしこの「犯人」はネットの自動翻訳サービスを知らなかったんでしょうか?)英語で堂々と論評させ、中間点も含めて英語の知的表現能力のクオリティを厳しく見ればいいのです。後は「面接など主観的な判断は不公平」とか「小論文で一字でもオーバーしたらダメ」とか「高校で習っていないはずの公式を使うのはルール違反」などという腐敗した官僚主義のようなカルチャーも一緒に葬らないといけないと思います。

いい加減に「入試イコール基礎能力判定の科挙試験」といった権威付けはやめて、各大学が文系も含めて「入るのは簡単だが出るのは難しい」という制度に改め、その上で「ちゃんと卒業できそうな人材を選別する合理的な入試」へとシフトすべきだと思います。大学の国際競争力ということから考えると、もう余り時間は残っていません。昨年あたりから東大が高校生向けの説明会を始めましたが、合格者の海外流出を懸念する危機感は良いのですが、本当に危機感を持っているのなら入試と学部教育の改革スピードを上げるべきだと思います。

とにかく意識の改革から始めなくてはなりません。例えば、最近「学歴ロンダリング」という言葉が流行しているのを聞いて、私は絶望的な気分になりました。この言葉の意味するところは単純です。大学の学部4年間を過ごして学士号を取った大学よりも、世間的にレベルの高い大学の大学院に進んで修士ないし博士を取れば、大学の時の「学歴」を「洗浄」できる、つまり評価の低い大学の卒業生という「学歴」から評価の高い大学の大学院の卒業生という「学歴」に変更できるということです。

そこに犯罪組織が資金の非合法な出所を糊塗する際の「ロンダリング」という言葉を使うのは、18歳当時に「難しい入試」に合格しなくては得られない有名大卒の肩書きを、その大学の入試を「パス」して得られるということに「不正」のようなニュアンスを感じているのと、4大卒の時点では「ダーティー」な某大学卒であったのが、院卒の時点では有名大卒に「洗浄」されているというイメージがあるようです。例えば、私大卒業後に

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