ある機関誌に投稿されていた中京大学の鯨岡先生の特集記事を読んで感じたことをつらつらと…。
ポイントとしてあげられているのは「育てる-育てられる」という関係性と時間軸との考え方。その点の説明については、以下のように書かれています。
「育てる-育てられる」という関係性は、今の時点だけを取り出せば一方が育てる側(大人)、他方が育てられる側(子ども)に固定されているように見えます。しかし、時間を動かしてみると、いま育てられる側にいる子どもは将来育てる大人になる存在であり、いま育てる側にいる大人はみなかつては育てられる側の子どもであったし、また今の育てる営みをとおして自らも育てる者として成長しつつあることが見えてくるはずです。
すごくあたり前のことだけど、ついつい忘れがちなこと。
浄土宗の妙好人(=篤信者(熱心な信者))との説もありますが、基本的には作者不詳とされているものでこんな言葉(永六輔さんが著書「無名人 名語録」にて紹介して広まった言葉)があります。
子供叱るな来た道だもの
年寄り笑うな行く道だもの
まさに、この言葉が教えてくれている通りだと思います。人と人とのかかわりは持ちつ持たれつ。人生における時間の流れの中で順番にその時を過ごしているのであり、鯨岡先生がおっしゃっているのもそのことだと思います。
現在の議論において
そんな中で鯨岡先生はこうも書かれています。
ところが、今日の子育てや保育を巡る議論は、この「育てる-育てられる」という関係性を視野に入れた議論になっていません。待機児童問題を解消するには保育その拡充を、保育士不足の解消には処遇改善を、働きやすさのためには子育て支援の拡充をと、必要条件を次々にあげつらい、それらの必要条件が満たされれば子育てや保育の問題が解決するかのような幻想が振り撒かれるばかりです。こうした議論がまかりとおるのは、結局のところ「子どもは育てられて育つ」ことのほんとうの意味が理解されていないからではないでしょうか。
目先に捉われ、物事の本質を見失っていると、仮に一時的な結果は得られたとしても、長期的な結果であったり、そもそも目指している本来の目的には到達することができないということになりかねません。
子育てや教育においては、今、この目の前にいる子に対して何がしてあげられるかもたしかにとても大切なことではあります。でも、それが次につながる形として今を、そして未来へと続いたとき、本当に目指したい子育てや教育が形を成し、この国の未来につながることになると思います。