まずは、以下の株式会社アゴラ研究所の記事を読んでみてもらいたい。(長文のため、今回の話に必要と思う部分だけを一部抜粋して引用させていただいています。全文を読んでみたい方は以下のリンクからどうぞ。)
元記事のタイトルは『センター試験での不正が示す日本の教育の後進性』。
産経新聞が本年度のセンター試験における「不正」の件数が全国で12件と過去10年で最多を記録した、と報じている。報道によれば、その内の半数を占めるのは「電卓の使用」であるそうだ。
私の友人には所謂「インターナショナルスクール」出身者が多く、彼らの多くは「センター試験」の代わりに国際バカロレア(IB)という試験を受けるのだが、IBはその難易度が非常に高くかつ学術性が高いことで知られている。実際、IB経験者の大学入学後の成績は、それぞれ各国政府が提供する公教育を受けてきた者と比べれば圧倒的に良い場合が多い。英国の大学であるにも関わらず、英国人よりもIB経験者の外国人の方が成績が良いのである。
ところが、そのIBの数学及び物理等の試験においては、電卓の使用は最初から許可されている。私の友人で数学と物理が非常に得意なギリシャ人の英国系インター出身者がいるのだが、彼はIBにおける数学の成績は最優であったにも関わらず、日本人の受験生ならほぼ全員が出来るような、「割り算」を電卓なしで行う方法を忘れてしまって出来なかった。私が「日本人」らしくそのやり方を示すと、「ああそんなだったかもね、ちょっと思い出したよ」とあっけらかんとしていたが、私はIBにおける教育と日本の教育にこれほど差があったのかと実に大きな衝撃を受けたものだ。
彼と同じ学校出身者の中にはケンブリッジ大や米国の名門大などへ進んでいる者も多いが、このエリート達にとって電卓を使って計算するのは当たり前のことであり、私が一応「日本では計算能力も知性の重要な部分だと思われてるんだけどね」と指摘すると、むしろ電卓という道具が存在しているのにこれを使わないことの「非合理性」を力説されてしまった。
彼によれば、「数学の本質は細かな計算などではなくて、概念を理解することだ。概念さえ理解できていれば、細かい計算は電卓にさせれば良いし、現実の生活においてわざわざ電卓を使わずに紙と鉛筆で計算する奴などいないのだから、それに合わせて教育も合理化されるのが当然だろう」とのことである。
IBと通常教育の違いは、何も電卓の使用が許可されているか否かという些細な点だけではない。むしろそれは両者の間の教育思想の違いを示す象徴的な例のひとつに過ぎない。例えばIBでは電卓が使用できる上に計算ミスはほとんど減点対象にならない。考え方が正解なのであればそれで良いとされるのだ。
日本の受験生は一点でも多くとらねばならないので、計算ミスは命取りであり、日頃からミスのないように訓練している人が多いと思うが、そんな苦労をIB出身者は一切することなく、どんどん概念的に高度な内容を学んでって最終的には大学レベルのことをある程度先取りしてしまうのである。結果大学入学後の成績は平均以上なのであれば、IBは学生の立場からすれば実に優れた教育なのではないだろうか。
「電卓を使用」することが「不正」として厳しく罰せられ、細かな知識を無理矢理にでも暗記させることを強いる教育風土の中から、さらなる効率的ビジネスモデルを冷徹に探求できる柔軟な頭脳が育ってくる期待するのは、棚からぼた餅が落ちてくるのを待ちぼうけているとの何ら異ならない。
受験対応だけの話ではなく、特別支援教育についても同じこと
別に日本で行なっている筆算を中心とする計算方法をマスターすること、そしてそれをミスを少なくするように練習を重ねること自体は決して悪いことではない。いや、むしろ、上記の話と合わせるなら、計算の概念を理解することや思考過程においてミスをしない訓練という捉え方をするならば、日本の教育のやり方も決して悪いわけではない。
必要な考え方は、それを学んだ先にいつまでもそこに同じウェイトをかけるのではなく、必要がなくなった(もう大丈夫になった)内容に関しては、利用できるものを効率よく利用し、その分を他の学びに費やした方が有効であるということだろう。
それは特別支援教育においても同じことが言える。
本人の今の力と、将来的に身に付けたい力、そして社会で生きていく上で必要な力という観点からしっかりと考えて、本人に必要な力をいかに効率よく、確実にものにしていくかが大切なのであって、学習カリキュラムやみんなが共通の段階を踏む必要性はまったくない。
にもかかわらず、現場では、すでできるようになったことをいつまでも繰り返しさせていたり、学んでいる内容にまったく系統性が感じられなかったり、はたまた、そもそもなぜそれをやっているのかがわからないような内容まで様々見られる。
そういった考え方を盛り込んで、方向性や取り組む内容を考えることが教育には必要であり、“公平”という言葉に縛られすぎて、画一的な方向性を示すことは決して賢いやり方だとは思えないが、その考え方が日本人の根底にあるからにはなかなか変わりにくいのも現実。
今後の日本はどちらに舵を取るべきか?
その答えは自ずと見えているような気がする。