51%

投稿日:2007/06/22 更新日:

今読んでいる本の中で、「なるほど!!」と感心させられたこと。
感心というよりは、すごく勉強になったといった方が正解かな???
抜粋してご紹介します。
「51%」の意味するもの
私は以前、こう考えていました。
何事も完璧を目指すとしんどいだけだから、80%でいいにしよう、と。
そして、10年前から、80%を60%に下げました。そしてこの頃はさらに下げて、とうとう51%にしてしまいました。
考えてみれば、80%は100%にかなり近いものです。何事も80%を目指していたら、とてもしんどくなってしまいます。
60%にして、大分楽になりました。
でも、51%はもっと気楽です。というのも、それは、要するにやらないよりはまし、という程度のものだからです。
(一部省略)
私の教師としての仕事もそうです。
このクラスを学校で一番のクラスにしてやろう。
この子をなんとかして成長させてやろう。
この子のだらしないところを、今年中に直してやろう。
そう思ってやっていたときもありました。今から15年くらい前のことです。そのために、ものすごくたくさんの仕事をしていました。毎回の授業の準備もかなりやりました。教材を工夫し、問題を工夫し、プリントを作って、というようにがんばりました。
そのこと自体はとてもいいことなのです。それを否定しようというのではありません。ですが、問題は結果を求めすぎていたことです。私は、自分の努力に見合うだけの成果を望みすぎていたのです。
(一部省略)
しかも、教育において結果を求めるとき、それはどうしても「子供に対する要求」という形になってしまうのです。
ビジネスで結果を求めるとき、それは「自分が」どれだけの利益を上げたかということを問われます。
スポーツで結果を求めるとき、それは「自分が」どれだけ勝利したかということを問われます。
でも、教育で結果を求めるとき、それは「子供が」どれだけ伸びたかということを問われるのです。主語は子供なのです。自分がどれほどがんばっても、「子供が」伸びていなければ意味がないということになるのです。
これが教育の特殊性です。
(一部省略)
辛く苦しい時間の中で、私は考えました。
子供を、私の願うように変えることはできない。
相手を、私の思うように変えることはできない。
変わるか変わらないかは、本人の自由であり、強制などできるはずがない。
そもそも、相手を変えようなどということ自体が、僭越なのではないか?
その子には、その子の在りようがある。
その子には、その子の自由がある。
私は、自分がいいと思う方へその子が向かうように働きかけることはする。
教師として、一人の人間として、自分に出来る努力をする。
でも、無理矢理矯正することはすべきでない。
結果は、子供、相手が決めること。
結果は、自分の手の中にはない。
自分にできることを精いっぱいやり、結果を天に任せる。
人事を尽くして、天命を待つ。
51%の結果でよしとする。

こういうことは、家庭での子育てにも当てはまるのではないかと思います。
(一部省略)
最後に一つ付け加えておきたいことがあります。
それは、51%主義は努力の放棄ではない、ということです。それは、努力の放棄ではなく、“結果の委任”なのです。
私は、努力しなくていいと言っているのではありません。子供のために、親としてするべき努力をしていってください。ただし、その際、結果は委任して、楽しみながらやっていくことが大切だということを言いたいのです。
(以上、本文より抜粋)
教育も子育ても基本は一緒。
大切なのは、子供の成長であり、まわりの大人の思いではないということ。
上手に肩の力を抜いて、子供たちと向き合いたいな♪

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